サブカルチャーを扱うライターであるということは、ノスタルジーについて持論を持つことでもある。

ジョーダン対レブロン、ショーン・コネリー対ダニエル・クレイグのジェームズ・ボンド、ツェッペリン対ニルヴァーナ、ヴィンテージのGMTマスター Ref.1675かモダンなRef.126710かなどなど。これらの議論は、実際の対象についてと同じくらい、それらが象徴する時代についての問題でもある。同様に過去が現在に与える影響も大きい。過去10年ほどのあいだ、時計業界はレトロ、復刻、そして“ヘリテージインスパイア”されたものに熱狂してきた。

チューダーとヘリテージ クロノグラフ、そして2010年代初頭に発表されたブラックベイは、それらが登場して以来、ほとんどすべてのブランドが追随してきたトレンドを生み出したと評価されることが多い。これは賞賛に値するが、人類は有史以来、インスピレーションを過去に求めてきた。ルネッサンスは古代ギリシャやローマを振り返り、『しあわせな日々(原題:Happy Days、サミュエル・ベケットの戯曲)』は70年代における50年代を美化し、そして現代の時計ブランドはすべてジェンタという救世主を仰ぎ見ている。

それにしても、時計に限らずノスタルジーを求めるトレンドは近年加速しているように思える。この1年だけでも、チューダー、セイコー、IWC、その他数十のブランドの復刻に加え、ダニエル・ロートとジェラルド・ジェンタのリニューアルを目にした。そのたびに、また新たな復刻を歓迎する人、あるいは嘆く人の賛否両論が挙がってくる。しかし私はこれらの特定のリリースの是非、あるいはトレンド自体の良否に興味があるわけではない。私たちはなぜ多くの場合、個人的な経験もないもの、あるいは私たちが生きている時代より前に作られたものに対してノスタルジーを感じるのだろう。

その理由を説明する前に、ノスタルジーとは一般的に過去に対する感傷と定義され、その多くは個人的に幸せな思い出のある時代や 場所に向けられるものであることを確認しておきたい。ノスタルジーを前面に押し出したリリースに対する批判の主たるものは、大抵の場合手抜きであるというものだ。

「古い時計をスキャンしてコピーすることは誰にでもできます」と、現ブレモンCEOのダヴィデ・チェラート(Davide Cerrato)氏は2018年にHODINKEEのラジオで語った。彼はあのブラックベイで、チューダーの再出発に貢献した人物だ。「古い時計のレプリカをリリースするだけでは何の意味もない。それならデザイナーや開発者は必要なく、スキャナと3Dプリンタがあればいいのです」とも話している。デザイン的にだけでなくその趣旨すらも手抜きであり、復刻モデルは私たちのなかに新しい何かを呼び起こそうとするのではなく、ノスタルジーというしなやかな琴線に触れ、それを欲しいと思わせようとするのだという論調もある。そして、もしこれらの古きよきものが今もなお重要なものであるならば(実際、再発されるほど重要なものであるに違いない!)、自分自身の人生や、それらのものから連想される思い出も同じように特別だと思い込むことができるだろう。

この批評に対する反論としては過去のデザインを取り入れつつ、現代の要素を反映しながらも適切にヴィンテージの再解釈を行うことは、実は非常に難しいということだ。同時に復刻モデルが私たちの心をかき乱そうとする、操作的と思われる感情的反応への反証もある。私たち自身の記憶と結びつき、それに伴う感情的な反応を引き起こすこと以上に、物事にとって本質的な目的はないのだ。

しかし、私がいつも考えていることがある。なぜこのようなヘリテージウォッチは何の感情も呼び起こさないのだろうか? 別の言い方をすれば、なぜ私は生まれてもなく、個人的なノスタルジーを感じることもない時代のジェンタや1970年代のデザイン(あるいは50年代のダイバーズやパンナムのパイロットウォッチ、60年代のレーシングカーにまつわるドライビングウォッチなど)にノスタルジーを感じるのだろうか。現在に決して満足できないからこそ、過ぎ去った黄金時代を懐かしむという『ミッドナイト・イン・パリ(原題:Midnight in Paris)』のようなファンタジー以上の何かがあるに違いない。

個人的なノスタルジー
2018年にブラックベイ フィフティ-エイトが発売されてから、私は4本購入している。ブラック、ブルー、シルバー、そしてまたもやブラックだ(これは限定版だが、まあ笑って欲しい)。そのあいだにも、チューダーはゴールドとブロンズのフィフティ-エイト、GMT、そして最近ではブラックベイ 54など、少なくとも12ダース以上のブラックベイを世に送り出している。これらの時計はどれも素晴らしいものばかりだ。しかしリリースのペースは実にめまぐるしい。そしてこれはチューダーだけの話ではない。半年前まで、私はペラゴス 39こそがチューダーのモダンダイバーズに求めるすべてだと考えていた。しかし現在ブラックベイ 54は、まるでコストコの会員になる以前、あの素朴な倉庫に潜む可能性を無邪気に信じていたころのような幸せな日々を思い返させてくれている。以前はペースもそれほど速くなく、あらゆることを私たちが経験する方法も変わっていった。

小学6年生のとき、初めて自分のお金で買ったアルバムはカニエ・ウェスト(Kanye West)の『ザ・カレッジ・ドロップアウト(原題:The College Dropout)』だった(わかってる、言いたいことがあるから挙げたんだ)。そのCDを買うために最寄りのスーパーマーケットであるターゲットまで10マイル(当時はそう思っていたが、今見たら1.4マイルだったようだ)ほどの道のりを自転車で走り、レジで母が駐車場にいると嘘をついてまで“PARENTAL ADVISORY EXPLICIT CONTENT(親への勧告 – 露骨な内容、未成年者にふさわしくないと認定された音楽作品に全米レコード協会が添付している)”バージョンを買わなければならなかった理由は、どうしても思い出せない。しかし幸せな偶然が重なり、1学年のほとんどの期間、バスのなかで私のウォークマンからはこのアルバムだけが流れていた。今、私はこのアルバムが史上最高のラップデビューアルバムかどうかを議論するためにここにいるのではなく(実際そうなのだが)、20年前と現在とでは物事を経験する方法がどれほど違っていたかを説明したかったのだ。

あのアルバムの曲を聴くと、温かくてファジーな感情の洪水が学生時代の1年分蘇ってくる。具体的な思い出でもなく、ただバラ色の回想を頼りにする以外には、おそらく今日よりもそれほどよいものではなかったであろう“古きよき時代”を思い出すという、純粋で個人的なノスタルジーである。しかしそれは単に思い出だけのことではない。このアルバムを何度も聴いているうちに、アルバムそのものをいいと感じるようになったのだ。すべての歌詞とブリッジを暗記し、“クルマを買う余裕がないから娘にアレクシスって名づけたんだ(couldn’t afford a car so she named her daughter Alexis.)”という歌詞に毎回苦笑している。古いものについて考えるのが難しいのはこのためだ。その対象と、それにまつわる思い出を切り離すのが難しくなるのだ。

時計もそう違いはなかった。ロレックスの長寿モデルで考えるとエアキング Ref.5500(1957年から1988年まで)やミルガウス Ref.1019(1960年から1988年まで)、あるいはパテックのRef.96(1932年から1970年代初頭まで)のようなものだ。私たちはこれまでに何度も何度も繰り返し、同じ時計に接してきた。例えば、Ref.5513 サブマリーナーの絶妙なプロポーション、完璧に計算されたドーム型クリスタルの湾曲、鋭角に面取りされたラグなどなど……、時計と向き合い鑑賞し、購入し、着用し、思い出を作る時間が与えられてきたのだ。今では、5年ごとにアップデートされない時計は古臭く感じられるようになった。